あんたの為に伸ばした黒髪
自ら鋏を手に取って切ってやった
幸せだった思い出と一緒に
さ よ う な ら
サ ヨ ウ ナ ラ
排水口
掴み切れていなかった髪は、葉の様に揺れて、春の雨の様に降った。鏡の中でハラハラと、肩に、胸に、足元に・・・無数の黒い線を残す。最後に行き着いたそいつが私の髪を喰らう。髪が中へと吸い込まれると、今にも何かが湧き出てきそうで、その口のあまりの果てしない黒さに思わず1歩後退った。視界の端に映った目の前の虚像が遅れて動いて見えたのは気の所為か・・・マジマジと鏡を覗いた。白い表情はもはや自分のものではない。逃げるように後ろへ歩を進めると、背筋に寒気を感じて、そーっと振り返った。
何も、無い・・・。
半開きの窓から入る風で最奥のドアだけが、不気味な音を鳴らして揺れる。
「・・・誰かいるの?」
静まり返った中、左手で掴んだままの髪が、汗を吸ってジワジワと指から手首へ、手首から腕へと絡み付いてくる。熱の無い汗と、さっきまで自分の生命体だったものが、まるで手の平を通って体中を這い回っている様だ。素早く洗面台横のゴミ箱へ投げ捨てて、右手に持ったまま鋏も鞄の中へと投げ放った。
息を吐くばかりで息が荒くなる。必死で呼吸の仕方を忘れまい、と大きく息を吸い込んで一気に吐き出す、それを繰り返した。蛇口を捻って絡み付いた髪を洗い流し、冷えた両手で頬を濡らした。
「・・・馬鹿げてる。」
それなのに、今か今かと丸く小さな穴に全身で期待と恐怖を未だに反芻していた。
まだ待たせるの?
早く私を飲み込んで赤い水でも沸かすと良いじゃない!
うんともすんとも言わない。
当然だ。
腹立たしくも無かった。
それも、当然だ。
ただ、ただただ、無性に崩れてしまうほど悲しくて、涙が溢れかえった。
綺麗な黒髪、とよく友人達からも言われたもんだ。その気になってシャンプーやリンスも色々と試した。チアリーガーのように頭の上の方で1つに結ぶのが常だったけど、その日だけはお洒落がしたかったんだと思う。
「の髪、ロングだったらもっと綺麗だろうな。」
彼は私の髪を手に取って、その髪にキスをした。
―― それは随分と前の記憶だったはず。
「久々だからって、からかわないでよ!てか、十分長いし!つーか、何年前の台詞引っ張ってくるのよ!」
小学生の頃1度だけクラスが重なったきり、彼が韓国へ飛んで行ってしまってからの時間は、何よりもこの髪が教えてくれる。
「の髪って神経通ってるみたいだね。誤魔化そうとしたのが裏目に出てもっと赤くなってるよ?」
「更に気障になりやがった。」
その言葉に否定も肯定もしないでただ笑っているのが癪に障った。
なんで急に帰ってくるのよ!
何で今日なの!
何で!
何でよ!
私が今持っている何もかも全てをぶつけてやりたい。
言葉でも物でも触れられないものでも、全部をぶつけて壊してやりたい。
なのに・・・、出来ない・・・どうしてよ。
「この教室ってのクラス?思い出にでも浸っていたの?」
「潤慶には関係ないでしょ。」
全部、飲み込んだ。
「何処行くの?」
「付いて来ないで!」
「じゃあ、ここで待ってるよ。」
背中の温かさに後ろ髪を引かれる。
肩甲骨辺りまで伸びた髪が本当に引っ張られているみたいで・・・。
立ち止まって振り返りたい!
教室に戻ってもう1度触れたい!
態と歩幅を狭くしてゆっくり歩いた。
馬鹿だ。
格好悪い。
そう思ったら駆け出さずにはいられなかった。
サ ヨ ウ ナ ラ。
切ってやったら軽くなって、首筋に当たる風が新鮮で、突然スッキリしてしまった。
なのに、泣くなんて、気味悪い。
鏡の自分の涙を拭う。
もう1度誓おう。
髪の長さはバラバラで、目と鼻は赤い、そんな気味悪い自分に誓おう。
もうあんたになんか飲み込まれてやらない。
2006/02/09 written by 葵