バタフライ
ロッサの帰り道、普段通り英士と一馬とマックに寄ってから、改札前で別れて、3人夫々の線路へと乗り込んだ。
電車が来るまで後5分。こっちの屋根とあっちの屋根の間から覗く空は、紫と言うよりも気色悪い程の赤と青のマーブルだ。ただそんな中でも明るい星が1つだけ確認出来た。暑い夕差しに冷たい風に仰がれながら、嗚呼日が暮れるのも早くなったなぁ、なんて思いながらも僅かな夕日の眩しさに目を細めた。
たかが親善試合とは言え、無我夢中で戦場を駆けていた数時間前を思い返すと胸が騒いで熱くなる。
俺はまだまだ走れる。
もっとボールに触れていたい。
もっと上手くなりたい。
もっとあいつらと一緒にいたい。
でも、風が吹く度にその冷たさに体が錆びて行くんじゃないかって気にされて、今まさに動けなくなってしまう様な錯覚に囚われる。時間が足りないのにそんな時間がもどかしい。なのに、腰に巻いたパーカーを着ようかどうしようか悩んでいる、そんな今の自分がいる事が可笑しかった。
目に被ってくる鬱陶しい前髪を手で梳かす。少し指通りが悪い。クレーグラウンドだったからスライディングか風で砂被ったかな。ワックスなんて当に汗で流れてるんだろう。そう感じた次の瞬間、手で梳かした髪が一瞬に崩れて酷い顔が映った。
ドアが開くと熱風を諸に食らって、再び髪型が崩れる。飽きれながらももう1度手で直し、車内を見渡すと帰宅ラッシュ寸前でも都心から少し離れたここではあまり人がいないらしい事に気が付いた。良くない事の後には良い事があるもんだ。ポツポツとだけ人がいる最前車両の1番端の席。車掌さん越しに見える静かに進んで行く光景が小さい頃から好きだ。今では手摺に頭を乗せられるお気に入りの端の席。
漫画を取り出してから重いスポーツバッグを足の間に降ろして挟んでやる。頭を手摺に預けて、決して明るくない照明の中、カバーの掛った表紙を捲った。
呼吸をする度に心臓が息をする。試合のある日はいつもそうだ。もう覚えちゃいないけど、初めてゴールを決めた時の様に心臓の鼓動が聞こえる。そんな自分の音を感じながら数ページ進むと、確かに読んでるはずなのに読めなくなってしまった。水に濡れてしまった様に文字が滲んでいる。目を細めると何度台詞を読んでも、まるでテストの英文の様に抜けて行ってしまう。1ページ進む度にもう1ページ戻って読まなくてはならなくなった。なんだか、体が重くて座席がめり込んで、沈んでしまいそうだ。ゆっくり流れる景色がぼやけて歪む。
あぁ、そうだ、この感覚・・・。
最後に見たのは、少年が友人の標本から盗った蝶を、ポケットから取り出す場面だった気がする。それも俺にとっては3度目の。
何かがぶつかった反動で、はっきりとしない意識のまま目を覚ますと黒いスーツの壁に圧迫された。車内の照明はすっかり人と人と人とで遮られている。その隙間からギリギリ見えた電光表示を読み取ると、俺が降りる1つ前だった。
危ねー・・・。
安堵感からふと感じたのは手の重み、俺は漫画をちゃんと離さずに持っていたらしい。自分で言うのもなんだけど流石と思ってみたりする。パラパラと早送りする様に捲っていると、漫画の印刷の匂いとは別に、ふと甘い匂いに誘われた。洋菓子とは違う、香水かシャンプーか、いやもっと独特の・・・もしかしたらその人自身が持っている匂いかもしれない。肩に1度ぶつかって、またすぐに離れたその一瞬だ。優しい香りが儚く鼻の奥で霞んで、胸がキュンとする。不意に、とてつもなく・・・。
誤魔化す様に漫画に向き直って、最初から読返そうと早々と表紙を捲った。滲んでいた文字はスラスラと読める文字に化けている。だが、今度は照明が更に暗くなった。前をチラ見すると、リーマンが新聞をガサガサと音を立てて捲っていた。一息ついて改めて読もうとすると、次には誰かの耳からシャカシャカと音漏れが聞こえてきた。よくある事だ。いつも意識していないところで掻き消されている事だ。
やっとの想いで1ページ捲る。なのに、読もうと思えば思う程進めない。目の端で、まだ不安定に左右に揺れている存在・・・。漫画に顔を向けつつも、少しだけ、ほんの少しだけ、チラ見した。
黒に灰のストライプが入ったスーツを身に纏って、黒タイツの脚を組む姿は、正にキャリアウーマンっといった感じだ。マニキュアの塗られていない丁寧に整えられた爪に、白く細長い指。思わずドキっとしてしまう。そんな手に抱えられた書類は、赤ペンやマーカーで更に難しそうに見えた。が、書類の端に蝶が描かれている。ちょっと嬉しい。
ガタンと揺れて、また肩にサラサラの髪と優しい香りが、寄せては引いて行く。目を漫画に移しながらも、頭の中はもう口に出せない程ヤバイ。マジヤバイ。嗚呼どんな人なんだろう。もう1度視線を移す。うなだれていて顔は髪に隠れて見えない。
やっぱりキャリアウーマンは性格キツいのかな?
でも、書類に落書きだぜ?
しかも、よく見たらその絵の周りには「チョウ」と読む漢字でいっぱいだ。
何だろう?
キラキラと耳元が光った気がした。
ピアスだ・・・。
青色の蝶が髪の中で見え隠れする。
なんか、良いな・・・・。
隣りに座る自分が、急に、小さく感じられた・・・。視線を手元に戻すと、その手に握られた漫画は進んじゃいなかった。目で一コマ一コマを右上から左下まで順番に眺めてパタンと閉じた。
降りないと。
席を立って目の前のリーマンと交代する。うなだれた頭は、次第に前のめりになって額と腿がくっついてしまうんじゃないかと思った。
外へ出ると、今度は冷たい風に縛られる。すっかり夜だ。1時間くらい前に見た赤は、見事に青に飲まれてしまった。
俺と彼女が出会う事なんて、ただ行き交っていく人と同じ様に事実上これが最初で最後だ。それでも・・・、
もし、もう1度会えるなら、どうかその蝶のピアスをしていますように・・・。
バッグをホームのベンチに置いて、腰に巻いていたパーカーを被りながらそんな事を想った。バッグを背負って、パーカーのポケットに手を突込んだら、何度も読んだシーンが蘇った。主人公の少年のポケットからは、綺麗な羽をボロボロにした蝶が出てきたのに、俺のポケットには何1つ入っていなかった。ガムの包み紙でも入ってくれていた方が良かった。家に帰ったらアルバムを引っ張り出して見よう。
振り返って、既に見えなくなった電車を見送った。
2005/11/30 written by 葵