桜風 −幸福−
「おかえり、渋沢。」
卒業式を終えて、沢山の女子や後輩から逃げ回り、やっとの思いで寮に帰ると、
どこから侵入したのか分らないが、再び女子がいる。
それが苦手な人ならば、疲れも頂点に達していただろう。
「意外な事に、面白い客がいるな。」
窓から差込む錆びないオレンジ色の光。
ふわりと白いカーテンは、軽く波を打つ。
暖かい春風によって、机上にある幾つかの本は音を立てた。
部屋中には、どこからか桜の花びらが数枚、迷い込んで来ている。
そんな部屋に1人居座る彼女に向かって、今日繰り返し続けた笑顔を送った。
可笑しくなる程、癖になってしまったみたいだ。
「“おかえり” って言ったんだから、 “ただいま” でしょ?」
逆光して表情は見え難いけれど、怒らずに微笑しているだろう。
澄んだ瞳孔を開いて、桜色の唇は角をあげる。
俺には、そんないつもの表情が簡単に想像つく。
「ただいま、。」
そう言いながら、体を引き寄せた。
もう、どれぐらいになるのだろうか?
彼女が不法侵入してきて、この部屋で抱き締め合うことも。
サラサラと癖のない髪を撫でると、仄かにシャンプーの香りがする。
その香りも幾度となく吸い続けたけど、いつだって俺を心地良くするほどに酔わせる。
その白い肌も、澄んだ瞳も、桜色の唇も・・・
俺の胸に置いたその手の仕草も、落ち着いた息遣いも・・・
君の全てが、俺を酔わせて、狂わせる・・・。
そんな俺に、君は気付いていないのか?
「守り切ってくれたんだ?」
胸の中で、ボソッと彼女は呟く様に言った。
初めは何の事か分らなかったが、彼女の手の動きですぐに気付く事になった。
彼女は、俺のブレザーの前ボタンを、嬉しそうに弄んでいる。
乙女心なんて理解し切れないけれど、昨晩糸を二重にして縫い付け直した自分も理解し切れない。
全てを知り尽くしたいなんて年頃は、とっくに過ぎている。
だから、それらを理解したい訳ではない。
だけど、せめて、君が何を想っているのか教えて欲しい。
だって、俺はこのボタンの様に、君に弄ばれているじゃないか。
「全部、くれる?」
甘い瞬きをして、上目遣いで求められたら、渡す他にないだろう。
どうして、そんな弱点をつく様なやり方を覚えてしまったんだ?
どうして、そんな俺のところに影響されたんだ?
そう訊いても、君はいつか答えたように・・・
「好きだから。」
そう答えるんだろう。
俺はブレザーを脱ぐと、素手で前ボタンを取っていく。
案外固く付けてあるけれど、自分の力で取れない程ではなかった。
ゴールキーパーという、特別なポジションにいた御蔭かもしれない。
袖のボタンは、流石に誰かに盗られていて、俺のブレザーは随分と寂しいものになる。
「約束だったからな。」
「うん、ありがとう。」
学生服のボタン独特の音を鳴らして、彼女に手渡すと、大事そうにそれは内ポケットへ仕舞われた。
再びワイシャツだけの俺の胸へ飛び込むと、物凄く幸せそうな笑みを漏らした。
それは、まだ先にとっておくものじゃないのか?
高がボタンで幸せにならないでくれ。
俺が世界に立った時、同じ表情をされては、俺はボタンと同レベルじゃないか。
こんなにも長い間いるのに、未だに君を理解出来ない。
そこの卒業アルバムにだって、2人並んだ写真は存在する。
こんなにも側にいるのに、俺は君に弄ばれたまま。
その写真は、いつか色褪せてしまうけれど、2人は並んで存在する。
どんなに遠い未来を見つめても、変わりそうにない。
俺と君の関係が変わりそうにないから。
「なぁ、?」
「ん?」
それは、一瞬に感じて長かったのか、長く感じて一瞬だったのか分らない。
ただ、与えたものが愛で幸ならば、貰ったものも愛で幸なのだと思った。
「酷いなぁ。高校入ったらって約束、破るんだ。」
本当に酷いなんて、思っていないんだろう?
今の君は、さっきより幸せそうな笑みを漏らしているよ。
少しだけ、君が何を想っているのか、教えて貰えた気がする。
「俺は狼なんだ。」
錆びないオレンジ色の光とともに、幸せの風は優しく吹荒れる。
桜の花びらを数枚乗せて・・・。
2003/03/18 written by 葵